レディ・ガガとポップスと多様化と

昨日、話題のアーティスト、レディ・ガガのプロモーションビデオを観る。
おもしろい。私は、このデカダンな雰囲気大好きです。キリスト教徒でないので、そのインパクトは私には拾い上げることができないという、残念な状況もあるのですが。
(某アイドルの曲を神曲とかいってしまえる環境なので、仕方ないよね。)
ただ、この方(レディ・ガガ)って、そのまんまマドンナじゃないのか?って思ってしまったのです。
まぁ、プリンスが現れたとき、彼のことをジェームス・ブラウンは「彼がやっていることは全部俺が以前にやったことなんだ」なんて言っていたし、次世代のアーティストが、前の世代のアーティストの表現を引用することなんて当たり前だし、オリジナリティに関してはこの際不問。


というより、マイケルジャクソンやマドンナが活躍した80〜90年代に、ポップスという音楽とビジュアルを絡めた表現にある程度の「様式美」とそれを創造するための「機材・技術」が確立されたんだろうね。これだけ全世界の情報が手に入って、世界中のアーティストが山ほど自分の表現をリリ−スするようになって、表現は細分化する方向に向かっていくのかと思っていたんだけど、どうやらそうではないらしい。


人類に「表現」という行為がうまれて、これまで世界中で積み上げられてきた無限のアーカイブから、コラージュして、ラベルには「わかりやすいキャッチコピー」をつけることでパッケージとして送り出すことが可能になったのかなぁ。


それは、さながら工業製品のようだよね。大量生産大量消費を前提に、コストメリットがあるから高品質な製品を送り出せる好循環。でも、大量消費を前提にしているから、誰にでも受け入れられる「洗練された商品」でなければならないんだろうね。


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何でもそうなんだけど「集団」って、多様な個の集まりのはずなんだよ。
インフルエンザなんかでも、ウイルスの形が多様で融通無碍に変化するから、いつまでも生き残っている。
いろんなモノが、一つの強い価値観に収束していっているように見えるこの頃の世界は、なんだか突然崩れ出しそうでとても怖かったりします。


人は他人に理解してもらいたい生き物だし、より多くの仲間をつくりたい生き物だと思う。
私もそうだし、だからこそ個人と個人の間でも、表現においても、「伝える努力」は大切だし、「完成された形、お約束の表現」は有効に使っていくべきだと思う。
でも、「ああっ、ごめんなさい。綺麗にパッケージされるのは、無理です。」と私は思うのです。
「そんな力はありません。」っていう。
あのにっくき曲「世界にひとつだけの花」との違いは、これが価値に転換しないところかな(笑)
つまりどうあがこうとも「ひとと違ってしまってごめんなさい」という。
そういうつぶれ役も集団にはいてしまうということだな。


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問題はお金なんだろうな。お金っていう世界共通の価値が、何かを蝕んでなんだよな〜。
でもお金は欲しいよな〜、できるだけたくさん。


なんか身も蓋もない話に落ちたところで、では〜。。。。